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連載:「帰る!」と怒り出すSさんが本当に見ていたもの

(本記事は、「毎日新聞・医療プレミア『理由を探る認知症ケア』」に2019年9月に掲載された筆者の記事を転載しております)


Sさんはなぜ早く帰りたがるのか?

 元技術者のSさん(89歳)は妻に先立たれて以降、長男の家族と暮らしていました。アルツハイマー型認知症があるものの、身の回りのことはだいたい自分でできます。長男やその妻が「今日は病院だよ」「晩ご飯ができたよ」「お薬飲んだ?」と、その都度予定を伝えたり、確認の声をかけたりすることで、自宅で穏やかに過ごせていました。

 高齢になって長男宅に移ってきたため、隣近所に知り合いはいません。長男家族は、父親にデイサービスに通って友人、知人を作ってもらい、会話や食事を楽しんでほしいと考えました。本人に勧めたところ「行ってみたい」と言うので、デイサービスを利用することにしました。

 Sさんはすぐにデイサービスになじみました。最も熱を入れて取り組んだのが、計算問題を解く脳トレです。元化学系の技術者で理系頭脳の持ち主なので、毎回集中し、1問も間違えず楽しんでいました。

 ところが、問題が起きました。毎日夕方になるとSさんは「帰る」と言い出すのですが、送迎時間より前に言うことが多く、職員が「時間までもう少しお待ちください」と説明すると、興奮して烈火のごとく怒り始めるというのです。むしろ、理路整然と説明すればするほど怒りが増す様子でした。

「帰宅願望が出ると大変なんです……」

 デイサービス職員の相談を受け、事情を探ることにしました。職員は「帰宅願望が出ると大変なんです。どうしたらいいですか?」と、途方に暮れていました。

 わたしはSさんの目線で想像してみました。自分が「帰る」と言って、「すぐには帰れません」と言われたら、「なぜ?」となるのは分かります。説明に納得できなければ「帰る!」と興奮するのも無理ないなと思いました。

 このような時、いつも確認するのは、「いつ、どこで、どんな言葉を発しているか?」です。職員に詳しく聞くと、夕方、送迎準備が始まるころ、デイサービス施設の出入り口の引き戸を見ながら、「わしはもう帰る」と言うことが分かりました。ということは、それ以外の時間は「帰る」と言わないということです。

 認知症の人の中には、自宅にいるのに「家に帰る」と言う人もいますが、Sさんは自宅でそれを言いません。デイサービス限定の言葉です。

 またSさんは、毎回「帰る」と言うのではなく、言わない日もあるというのです。

 送迎時間に「帰る」と言うのは、考えれば自然なこと。送迎時間になると施設利用者が手荷物や帽子を手元に置き、バスに乗り込む準備をします。せわしない空気を感じて「帰る」と言うならまだ分かります。なぜ言ったり言わなかったりするのでしょうか。

「帰る」と言う理由、言わない理由は何?

 職員に尋ねても「まったく理由が分かりません」と言います。そこで宿題を出しました。(1)利用する曜日によって違うのか(2)座っている場所で違うのか(3)天候によって違うのか――などを、注意深く観察してもらうよう頼んだのです。

 すると、手がかりはすぐに見つかりました。

 一つ目は「座っている場所」でした。デイサービスの出入り口が見える場所に座っていると、送迎車が玄関前に並んでいるのが見えます。その時Sさんは「帰る」と言います。一方、送迎車が見えない場所に座っている時は、まったく「帰る」と言い出さなかったそうです。

 二つ目は、「送迎する順番」でした。Sさんはいつも1便目が出た後の2便目の送迎車に乗るのですが、1便目に他の人が乗り込んでいるのを見て、「なぜ自分は乗れないのか!」と怒り始める可能性が浮かび上がったのです。

 二つの手がかりをもとに、座る場所や送迎の順番を調整してもらいました。その結果Sさんの興奮は収まり、適切に対応できるようになったそうです。

「帰宅願望」というラベルをはがす

 Sさんの反応は認知症とは関係なく、人間なら誰でも起こり得る自然な反応でした。

 認知症のケアにかかわる専門家は、「帰る」という言葉からすぐに「帰宅願望」を連想し、ラベルを貼りがちです。そのラベルは、「認知症によるものだからどうしようもない」という諦めを瞬時に抱かせ、周囲の人が適切な関わり方を探る機会と能力を奪います。無用の長物なのです。

 人としての自然な反応に素直に目を向けることが、認知症でも安心して暮らせる未来につながるのだという気づきを、Sさんの事例で得られました。

(本記事は、「毎日新聞・医療プレミア『理由を探る認知症ケア』」に2019年9月に掲載された筆者の記事を転載しております)

https://mainichi.jp/premier/health/articles/20190924/med/00m/100/006000c

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