連載:「家に帰りたい」は単なる帰宅願望ではなかった!?
(本記事は、「毎日新聞・医療プレミア『理由を探る認知症ケア』」に2019年4月に掲載された筆者の記事を転載しております)

「家に帰りたい」と言い続けるB子さん
最愛の夫を亡くしたことをきっかけに、認知症による混乱が増えてしまったB子さん。子どもたちは遠方で暮らしていて、1人暮らしの母親に何か困りごとが起きてもすぐには駆けつけられません。そこで家族が話し合った結果、B子さんに有料老人ホームで暮らしてもらうことになりました。
入居当初は、慣れない環境にそわそわし、眠れない日もあったようですが、次第に職員や他の入居者とも談笑できるようになってきました。
ところが入居して3カ月ほどたったころから、「家に帰りたい」と訴えるようになりました。入居して環境が変わった直後に「家に帰りたい」と訴える人はいますが、環境に慣れると訴えは減るのが一般的です。3カ月もたってからの訴えに職員は戸惑いました。
職員は、B子さんが「家に帰りたい」と訴えるたびに、「どうして帰りたいのですか?」と尋ねました。いろいろな答えがあった中で、次のような答えが多かったそうです。
「家の風通しをよくしないと傷む。だから帰らせてほしい」
「家の庭の手入れをしないといけない」
「仏壇がそのままだから、私が夫の供養をしないといけない」
家族が1人暮らしを心配してホームに入ってもらったのですから、自宅に戻って1人暮らしをするにはかなりの調整が必要です。そのうえ、一度自宅に連れて帰って、その後「老人ホームに戻りたくない」となっては大変です。職員は「家に帰りたい」という希望に応じられず、ごまかすしかありませんでした。
「今日は天気が悪いですから」
「もうすぐ夕ご飯なので」
「息子さんにお願いしておきますよ」
こんなふうにごまかしてみても焼け石に水。B子さんが不安な表情を浮かべる時間が増えたため、「家に帰りたい」と訴えたらつきっきりで対応しなければならなくなり、職員は困り果てました。
「家に帰りたい」と言わなくなった理由は
「家に帰りたい」という訴えに耳を傾けているうちに、ある理由がかなり高い頻度で出てきました。それは「仏壇がそのままだから、わたしが夫の供養をしないといけない」でした。
そこで家族に相談し、▽仏壇をそのまま持ち込むことはできない▽お部屋で供養ができるように亡夫の位牌(いはい)と線香立てを部屋に設置する▽位牌と線香立てを取りに一時帰宅する――という話がまとまりました。
3日後、位牌と線香立てをホームに持って帰り、部屋の小さなたんすの上にある夫の写真の横に置きました。亡きご主人をしのび、いつでも手を合わせられる環境が整ったのです。すると、それまで「家に帰りたい」と訴えていたB子さんが、ぴたりと何も言わなくなったのです。
このことから、B子さんが訴えていたのは「家に帰りたい」という帰宅願望ではなく、「位牌の前で亡夫をしのびたい」という願いだったと言えるのではないでしょうか。
家に帰ってからやりたいことこそ「本当の願望」
「帰宅願望」は、取り上げられることが多い認知症の代表的な症状の一つですが、「家に帰りたい」という言葉は、認知症の有無に関係なく「帰宅願望」と言い表すことができます。
しかし、よくよく考えると、「ただ家に帰りたい」という願望は存在しないのではないでしょうか。家に帰ってやりたいこと、家に帰れば手に入れられる環境や状態があるからこそ「家に帰りたい」と願うはずです。
一人になりたい/ゆっくりくつろぎたい/早く寝たい/晩ご飯をつくりたい/息子の帰りを待ちたい――などなど。
このように、さまざまな理由があって人は家に帰ることを望みます。そう考えると、「帰宅願望」は「結婚願望」と似ているかもしれません。
というのも、帰宅も結婚も「ゴールではなく始まり」だからです。先ほどの帰宅願望の理由もそうですし、結婚願望も「大好きな人と一緒にいたい」「子どもを育てたい」「支え合えるパートナーがほしい」などその先に得たいものがあるからこその気持ちです。それこそが本来の願望です。
ところが、この本来の願望を想像できないと、なかなかうまく対応できません。「希望に応じたら、帰りたいという気持ちを高ぶらせてしまうかもしれない」と心配になり、軽く聞き流したり、踏み込まないように話をそらしたりしがちです。
私は、本当の願いを介護者に分かってもらえないことへのいら立ちが、「帰宅願望」への対応を難しくしているように思います。
今回、ホームの職員がB子さんの亡夫への思いを酌み取り、その気持ちを本当の意味で鎮めるために環境を整え、B子さんを「帰宅願望」から解放しました。とてもすばらしい関わり方だったと思います。その人の願いのその先を柔軟に想像しながら、関わりたいものです。
(本記事は、「毎日新聞・医療プレミア『理由を探る認知症ケア』」に2019年4月に掲載された筆者の記事を転載しております)
https://mainichi.jp/premier/health/articles/20190417/med/00m/100/003000c