連載:「嫁に殺される」発言は単なる被害妄想ではなかった
(本記事は、「毎日新聞・医療プレミア『理由を探る認知症ケア』」に2018年8月に掲載された筆者の記事を転載しております)

アルツハイマー型認知症と診断されたA子さん(80代)。50代の息子夫婦と一緒に暮らしていましたが、ある時を境に、周囲の人に「嫁に殺される」と漏らすようになりました。
通っているデイサービス施設の帰り際、「私は今日嫁に殺されます。みなさんお世話になりました……」と毎回あいさつして、どう受け止めればよいのかわからない職員や他の利用者を戸惑わせました。
息子さんと一緒に家に帰る途中、「あの嫁がいるから、私は帰らない!」と言うこともありました。 息子さんが奥さんに電話して「少しの間家から離れていて」と頼み、A子さんには「嫁はいないから」と説得して連れ帰ることもありました。そして、「ほら、いないだろう?」と家に招き入れ、その後奥さんを帰宅させて、一緒に食卓を囲むパターンを繰り返していたそうです。
一見、認知症に起因する「被害妄想」のようなケースですが、そう見なすと、往々にして「認知症が原因で起きているのだから仕方がない」という結論になりがちです。
きっかけは息子夫婦との同居
「嫁に殺される」と言いつつ一緒に食卓を囲むのは、理解しがたい行動です。だからこそ、一緒に食卓を囲む行動の背後に、文字通りの「嫁に殺される=命を狙われている」のではない、異なる意味が隠されている可能性を見いだすことができます。
A子さんは、息子夫婦と同居を始めた当初から「嫁に殺される」と言っていたわけではありません。むしろ2人の仲は良かったそうです。身の回りのことがうまくできなくなったA子さんの様子を見て、お嫁さんは「お母さん、わたしが洗い物をしますから休んでいてください」と声をかけ、A子さんも「ありがとう、助かるわ」と感謝を伝えるなど良好な関係を築いていました。
ところが、それから半年後、周囲の人に「嫁に殺される」と言うようになりました。
認知症の進行を疑わせる変化ですが、A子さんは隣家の90代女性のお世話に行くことだけを変わらず続けていました。会話も弾み、談笑する様子から、周囲には「認知症には見えないほど楽しそうに会話している」と映っていました。どうも進行したのではなさそうです。
このエピソードを聞いて、「嫁に殺される」発言の背景に思い当たりました。
彼女は確かに「殺されていた」
お嫁さんが姑(しゅうとめ)に「私が(家事を)やりますので、お母さんは休んでいてください」と声をかけることは珍しくありません。むしろ、お姑さんをいたわる優しい言葉です。ところが、今回のケースのように、認知症による要介護の状況では、いたわりの言葉が違う意味を持ち始めるのです。
認知症と診断されると、人は「お世話される対象」として扱われ始めます。子供夫婦との同居が始まり、実際にお世話される機会が増えます。すると、本人は今まで自分がしていた家事や雑事を奪われ、自分の存在価値を感じにくくなり、どうしようもない不安を感じ始めます。
このケースでは、A子さんに食器を洗ってもらうと二度手間になると感じたお嫁さんが、洗い物を「奪い取った」ところからすべてが始まったようです。次第にお嫁さんが掃除や洗濯も引き受けるようになり、A子さんは妻や母として家事を担ってきた役割をどんどん失っていきました。アイデンティティーとしての役割を奪われたことを、「殺される」と表現したのだと思われます。
お嫁さんが家事の大半を担い始めた時と、「嫁に殺される」と言い出した時期が一致していることから、家庭内での役割が奪われることへの悔しさ、悲しさ、情けなさのような気持ちが生まれたのではないでしょうか。だからこそA子さんは、隣家の女性のお世話に行って、役立っている自分を再発見し、いきいきとした表情を見せたのかもしれません。人は人の中に生きてこそ、自分の生を感じられるものなのでしょう。
その後、息子さんが「かあちゃん、一緒に買い物に行こう」、お嫁さんがA子さんに「お母さんのおかげで助かりました」などと、「母」「姑」の役割を感じられるような言葉をかけるようになって、「嫁に殺される」発言はなくなったそうです。
「嫁に殺される」発言を、単に認知症に起因する「被害妄想」ととらえるか、それとも、役割を失ったことによる不安感の表面化ととらえるかで、たどり着くゴールはずいぶん変わります。発言や行動の背後にある「理由」を想像し、柔軟に意味をとらえたいものです。
(出典:毎日新聞・医療プレミア『理由を探る認知症ケア』2018年8月掲載)
https://mainichi.jp/premier/health/articles/20180802/med/00m/010/011000c